大島弓子の『グーグーだって猫である』は、
コミックの文庫版を3巻まで買って、
その後発行されたものには手をのばさないままだった。
単行本として出るまでにけっこう時間がかかり、
各巻の「あとがきマンガ」でも、
作者がそういう状況を詫びているくらいなので、
「いつか出るだろう」「いつか読めるだろう」と、
こちらも、のんびり構える態勢になっていた。
ファン歴が長くなると、みんな気が長くなるもんだ。
ただ、シニア猫になっている筈のグーグー(1995年生まれ)。
彼のシニアライフは気にかかり、
心の隅でたまに、「どうしてるだろう?」と考え込む。
2年前、320グラムのミライを迎えてから、
「毎日がてんてこまい」になってしまって、
大島家の猫たちの事は、しばし遠いものになっていた。
大野くんが居ない2度目の大晦日。
でも、大野くんが無事に暮らしている事が、
ほぼ確認できた状態だったので、
1度目よりは悲痛さのない、昨年の大晦日。
大掃除もせず、ふらふら外出して本屋に入ると、
探していた本より先に、
『グーグーだって猫である』の文庫版新刊の背表紙が、
ぐぐっと目に飛び込んできた。
そう。ホントに、飛び込んできた感じなのよ。
指先が、本に触れる前に、予感があった。
手に取って、本の裏側の解説を斜め読みしたら、
その巻が「グーグー」シリーズの完結編だという。
中を開かなくても、解った。
グーグーは…
文庫版の後ろの頁だけ読んでみた。
簡潔な線のマンガと、短い台詞で、
グーグーの病死が描かれていた。
あえて、感情を排除した「報告」になっている。
グーグーは、東日本大震災の翌月に、
腎臓の病気で亡くなっていた。
15歳半ではなかっただろうか…
生後3か月のミライ。ちょっと凛々しい
「グーグー」マンガはこれで終わり、となっている。
私は、グーグーの訃報(3年半遅れ)に触れた後、
本を棚に戻しながら(買わないのかよっ)、
ぼんやり考えていた。
彼女はもう、マンガを描かないつもりかもしれない。
サバの死後、たぶん
大島弓子はストーリー漫画を発表していない。
彼女の砂漠をオアシスに変えた、グーグーとの生活を
マンガで描いて世に出していた。もっぱら。
そのグーグーを喪った、彼女の心を想像してみる。
グーグーに次いで、続々と彼女は猫を引き取り始め
(ペットショップで買ったのは、グーグーだけだと思う)、
引っ越し先の一戸建ては、9匹の大所帯になっていた。
残された猫たちが居るのだから、
さすがに、心は砂漠にも荒れ野にもなっていないだろう。
それでも、喪失感の深さを埋めることは難しい。
「連載終了」は、主役の退場が理由では、もちろんない。
作者の心から、「描く気持ち」が空へたなびいていく。
彼女が、猫と暮らした30年近い月日のぶんだけ、
長く、ほっそりした煙が見えるようだ。